下ノ廊下・水平歩道紀行2016プロローグ 旅の雑学
「高熱隧道」と「黒部の太陽」の時代的背景
旅の醍醐味のひとつに、その土地を舞台とした小説を読んだり、その歴史を学んだりしたうえで、その世界に浸りながらそこを歩くこと、また、旅したことにより、その土地に興味をもち、その土地の歴史や地理を学ぶなどして自身の興味関心の引き出しを増やすことなどあると思います。
今回、旅した扇沢→黒部ダム→下ノ廊下→水平歩道→欅平→宇奈月。
このルートは、まさしくその楽しみを満たすべく要素満載な場所。
黒部渓谷という秘境を歩きながら、深い深い歴史を五感で感じられるルートでした。
このルート上では、いくつかのダムを通ることになるのですが、そのなかでも
旅の冒頭に通るのが「黒部ダム」、中盤に現れるのが「仙人谷ダム」。
これらの建設にまつわる工事の現場を舞台にした小説が、
木本正次著の「黒部の太陽」と吉村昭著の「高熱隧道」です。
ここを旅しようとする人は、読破しないまでもタイトルくらいはどちらも目にしているかと
思いますが、旅を終え、記録を整理する一環としてこの二つの小説を少々分析、整理してみることにしました。
写真:左から 関電トンネル・関西電力黒部専用鉄道・黒四ダム建設慰霊碑「六体の人物像」
1.描かれた年代は「黒部の太陽」と「高熱隧道」どちらが先?
吉村昭著の「高熱隧道」は、日本電力黒部川第三発電所(現関西電力に移管)水路トンネル、欅平駅~軌道トンネル(現関西電力黒部専用鉄道)の工事現場や人間関係について、建設会社の現場土木技師の目を通じて描いた作品。同工事は昭和11(1936年)年着工、昭和15年(1940年)工事完了。
一方、木本正次著の「黒部の太陽」は、黒部ダムを含む黒部川第四発電所の建設プロジェクトのうち特にトンネル工事について描いたもの。昭和31年(1956年)着工、昭和38年(1963年)工事完了。
「高熱隧道」は戦前。「黒部の太陽」が戦後。
ですので、「高熱隧道」の工事があってからおよそ20年後、第二次世界大戦をはさんで「黒部の太陽」で描かれる黒部ダム建設が行われたということになります。
2. 建設理由はどんなものだったのか?
「高熱隧道」の舞台となった黒部第三発電所 仙人谷ダム(以下、くろさんと表記)は
「第二次世界大戦前軍需物資製造のための電源開発のため」建設。
一方「黒部の太陽」の舞台である「黒部ダム」(以下、くろよんと表記)は、
「高度経済成長期を迎えると電力不足を補うため」建設。
「くろさん」は、14年電力国家管理法に基づき電力の政治統制を目的とした国策会社、日本発送電(株)が設立され、電力が国家の管理のもとにおかれるようになって建設されたもの。
「くろよん」は、戦後復興期の電力不足解消のために関西電力が社運をかけて建設したもの。
尚、余談ですが、黒部ダム建設は夢の超特急プロジェクトと呼ばれた、日本が戦後、世界銀行から支援を受けて行なった世界銀行31件のプロジェクトの1つ。東海道新幹線建設工事もそれにあたります。
どちらも国家の威信をかけた大プロジェクトではあるのですが、「くろさん」は、電力は国家が統制すべきであるとの考え方のもと、日本の戦時体制に組み込まれた土木工事であるという特異性があるわけです。
「高熱隧道」においても、「重なる死亡事故に警察や県は工事中止を命じるが、国家は戦争遂行のための電源確保を最優先させるためにそれを無視して工事を継続させる」といった記載がでてきます。人命より国家プロジェクトが優先される戦争直前の特異な時代背景が如実あらわされています。
一方、「くろよん」建設は、前述の内容と重なりますが、戦後の電力大飢饉時代に当時関西電力社長太田垣太郎氏が「日本の発展には黒部の開発が必要だ」と社運をかけてその建設を決意したとものであると同時に、日本という国が国民が戦後の敗退と虚脱から這い上がっていくのにどうしても必要なものとして望んだものといえるかもしれません。
写真:映画「黒部の太陽」ポスター
3. なぜ「黒部」なのか?
黒部川の長さは意外と意味短く86キロ。そこを北アルプス鷲羽岳を源流に標高差3000mを一気に流れる日本有数の急流河川。さらに、流域には全国平均の約2倍もの雨が降ります。
この流れの早い豊富な水が水力発電に最適なんです。
参考:http://www.kepco.co.jp/corporate/profile/community/hokuriku/unazuki/houko.html
黒部の過酷な自然条件が電力発電最適地であることはいうまでもないようですね。
従って開発の歴史は古く、大正時代からすでに電源が開発されています。
写真:黒部川水源地標 写真提供:Head for the Mountains「山々へ。」©Koheii
とはいえ、くろさん建設時はともかく、くろよん建設時は戦後。
いくら水力発電最適地とはいえ、あれほどまでに建設困難な場所。
あんな場所にダムつくるくらいなら時代的に原子力はなかったにせよ、
「火力」じゃダメなの?
という疑問がふつふつと。
実際、電力供給が国家的課題だった戦後復興期に関電は最新鋭の火力発電所を導入しています。
「黒部の太陽」にもこんな記述が。
「今までは『水主火従』だった電力が、これからは『火主水従』になって行くんだ。」と。
ところが、話はこう続くのです。
「というとはーどうしても大容量の水力ダムが要るということになるだろう?」
一見矛盾したこの話、どういうことかと申しますと、
「電力は貯蓄不可能なエネルギーである」ということが大きな鍵を握るんです。
「火力は燃料を炊く関係で、常にコンスタントな運転をしているほうが都合がよい。
炊いたり消したりしていては、燃料のロスが大きく不経済なばかりでなく、発電機器を損傷する恐れすらある。ところが需要のほうにはピークがあって、コンスタントというわけにはいかない。
生産活動の盛んな昼間には電力需要が多く、深夜にはがた落ちするのは、見やすい道理だろう。
そこで火力はコンスタントにたくことにして、ピーク時だけダムの水を流し、水力発電で調整するのである。水は貯えたり流したりしても、火力のようにロスも弊害もない、これが火主水従体制における、大容量水力発電ダムの効用なのである。」(「黒部の太陽」より引用)
まあ、この件については、これだけじゃないかもしれませんけれどね。
「電力」にまつわるエトセトラは、今も昔も様々な利権が絡む深い深いお話になりますから。
まあ、なぜ「黒部なの?」の回答のひとつに、少なくてもくろよんに関しては、上記の論理に加え、当時、関電が水利権を持つ大規模な水力発電所を建設可能な河川が黒部川しかなかったということも大きいのでしょうけれどw
4.時代背景
くろさんとくろよんが作られた時代はどんなものだったのか。
少しだけ時代的検証をしてみたいと思います。
「くろさん」が作られたのは、昭和11年(1936年)~昭和15年(1940年)
どんな時代だったかというと
昭和7年(1932年)満州国建国宣言
昭和8年(1933年)日本国、国際連盟脱退
昭和11年(1936年)2.26事件
昭和12年(1937年)盧溝橋事件
昭和15年(1940年)米日米通商条約失効・米国の対日航空ガソリン輸出禁止
昭和16年(1941年)太平洋戦争勃発 ・石油全面輸出禁止
政治的には日本が軍事国家の色彩を強めた時期であり
経済的には大不況を軍事需要増加の経済対策でなんとかようとしていた時期であり
社会的には翼賛体制色が強くなっていったころ。
では、「くろよん」が作られたとは昭和31年(1956年)~昭和38年(1963年)はどんな時代だったのかというと。
昭和20年(1945年)ポツダム宣言受諾
昭和25年(1950年)朝鮮戦争勃発
昭和30年(1955年)~昭和39年(1964)いわゆる「高度経済成長期」(神武景気)
昭和35年(1960年)池田勇人内閣による「所得倍増」計画。
昭和39年(1964年)東京オリンピック
戦後、高度経済成長の波にのって日本復興を急速に進めた時代。
このように改めて書き出してみると、工事当時の時代的バックボーンがくっきりとみえてきますよね。ちなみに「黒部の太陽」に主演している石原裕次郎氏の兄、石原慎太郎氏が「太陽の季節」が刊行されたのは昭和30年(1955年)です。まったくの余談ですけれどw
戦前につくられた「くろさん」は「大日本帝国憲法」時代に、
戦後につくられた「くろよん」は「日本国憲法」になってから建設されたわけです。
どちらも過酷な労働条件下で多数の犠牲者を出した工事ではありますが、大日本帝国憲法の下においては、法により認められた労働者の権利というものは存在せず、労働運動に対して弾圧的な政策が採られていた一方、日本国憲法制定によって、まがりなりにも「労働三法」が制定され「労働者の権利」という概念ができてきます。そんなところからも、「くろよん」工事における労働者の立場は、「くろさん」時代のそれと比較すると大分改善されていたのではないでしょうか。
単純比較ができるものではありませんが、実際の数値をみても、くろさんの工事はくろよん工事よりはるかに多い300名を超える犠牲者をだしています。
「黒部の太陽」が不屈の精神で難工事を完成させた男たちを賞賛する、どこか苦労と犠牲のなかにも「明るさ」と「希望」を見いだせる作品であるのに対し、
「高熱隧道」の登場人物は監督も作業員も「何かに憑りつかれて」いるかのようです。
映画「黒部の太陽」のなかでも、高熱隧道建設時の壮絶な回想シーンがでてきます。
「くろさん、もし地獄というのが本当にあるのならあれが本当の地獄ですな。」
「何年も地獄のなかにいると何が地獄だかわからなくなるものですな」
もはや、現場監督と作業員たちの狂気と狂気の競演です。
読後感に爽やかさや希望など存在しません。
と二つの工事を比較し、その違いを主張しましたが、黒部ダム建設工事でも171名、
黒部ダム同様「戦後復興における世界銀行31件のプロジェクト」であった東海道新幹線建設工事で210名と、大変多くの犠牲者をだしているところは、くろよん建設時も戦後とはいえ労働者に対する人権意識がまだまだ根付いていなかったことを物語っておりますね。
労働者の権利という意識が確立され整備されるのは、もう少し年月を必要としたようです。
現在においてそれが確立されていると声高らかに言えるのかといえば、、、
現在進行形で問題は山積みな有様ですw
つらつらと旅行記とはかけ離れる内容を書き連ねてまいりましたが、
旅の前後、気になりながらも曖昧であった知識をこうして少しずつでも整理することで、なんとなく漠然としてたものが徐々に明確になってきました。こんなことをやっていると、次々好奇心が沸いてきて、もっといろいろなことを調べたり整理したりといった作業をしたくなりますが、記憶があいまいになってしまう前に旅行記の執筆にとりかかることとします。というわけで次回は、下ノ廊下紀行、出発編です。たぶん・・・。
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