下ノ廊下・水平歩道紀行2016① 旅のはじまり
「下ノ廊下」を歩いてみたい。
そんな想いは、数年前友人が歩いてきた話を聞いてからずっと抱いてました。
けれど、まだまだ、山を歩き始めて間もなかった自分にはとてもとてもな畏れ多い場所。
漠然たる憧れのまま、その想いは、心の引き出しにしまわれ、いつしかそのまま眠っていたのです。
想いが再燃したのは秋の足音が聞こえ始めた頃。
近しい友人が今年一番乗りでそこを歩き、高揚した様子で旅での出来事を語るのを耳にして、
しばらく眠っていたその想いが目を覚ましました。
この友人の話を聞いたことは、今回の旅への大きな原動力となったのですが、
よく考えれば、何らかの形でここを山旅した話は、毎年耳にしているのですよね。
今年、心が動いたというのは色々な意味で、ここを歩くタイミングが私にとって
「今年」だったのかもしれないなと。まだ、自分の経験実力は心許ないという気持ちは
あったけれど、「今年だ!」という直感にも似た想いは、なぜかとても大きかったのです。
そんな勢いがあるときは、なにもかもが前に進むようにまるでプログラミングされているかのようで、今回同行してくれた友人とこの旅の合意を再確認し、阿曽原小屋に電話したのが9月下旬。
すでに満員で受付ていない日も多くなっているなか、都合の合う日程で予約を受けていただけました。勢いにのって、その場で行きのバスも手配。残り2席のところを滑り込みセーフ。
前泊する「ロッジくろよん」も「混雑しますよ」と言われたものの予約O.K.。
あれよこれよという間に、とりあえず、「行かれる」条件は整いました(笑)
と、何かに導かれるかのように旅の手配は整ったものの、ここから実際に歩くまでは楽しみよりも不安が大きく、年中、歩いてきた人のblogを読んだり、地図を眺めたり。
ところが、いくら調べても入ってくるのは断片的な情報ばかり。
どうにも「下ノ廊下」が具体的に見えてこないのです。
まあ、それもここが「秘境」といわれる由縁なのかもしれません。
情報収集すればするほど、不安が増大していくような日々でした。
前日には、友人とどちらかが「無理」と感じたら、早い段階で引き返そうと互いの意思を確認。
引き返した場合のサブプランまで作成しました(笑)
2016年10月15日(土)快晴。
いよいよ迎えた出発の朝。
まずは、今、何かと話題のバスタ新宿から高速バスで信濃大町へ。(9時35分発。)
旅が始まったというのに、まだ「楽しみ」よりも「不安」が大きいまま。
隣に座っている友人も同様の気持ちなのか、バスのなかでもお互いなんとなく口数も少なくなりがちに(笑)
それにしても、今日は移動だけだというのに、それはそれは見事な快晴ですw
あまり道路状況など気にもせず、ぼおーとしていたので順調に進んでいると思っていたのですが、
首都高を走っているとき、はやくも「渋滞のため1時間遅れです」とのアナウンスが。
呑気な私と裏腹に隣で次の乗り継ぎ調べ、到着が遅くなることを心配し始める友人。
そうなんでよね。現地までは、このあともいくつかの交通手段をまたぐのでタイミングによっては
大幅なロスタイムが生じ、到着が大幅に遅れてしまう恐れがあるのです。
(交通手段については、友人が運営するサイト、Head for the Mountains「山々へ。」 で詳しく解説しているので、そちらをご参照ください。)
前泊する「ロッジくろよん」は山小屋ではないとはいえ、普段、山小屋泊で慣らされている私たちのような山行者にとって日没後到着なんて初日から遭難したような感覚。縁起でもない。それだけは勘弁です。
とはいっても、到着時間の変更とともにズレが生じた次の乗り物への乗り換えの時間等を確認する以外、何ができるわけでもないので、(まあ、そもそも私はそのチェックをしている友人に相槌を打っていただけなのですがw)のんびり景色を眺めたり、うたた寝したりしているうちに、アナウンスどおり1時間遅れのおよそ15時頃、信濃大町に到着しましたw
ここからは路線バスで扇沢まで。
写真は撮り忘れてしまいましたが、運転席より座席がずっと高くてよい眺めのバスです。
一番前に乗れちゃいましたし♪
15:15に信濃大町を出発、定刻で15:55で扇沢からのトロリーバスの時間が16:00。
果たして、5分間でトロリーバスの切符を買って乗り換えできるのか心配ではありましたが、
ラッキーなことに少し早めに到着。余裕で乗り換えすることができました。
さて、いよいよ、扇沢から黒部ダムまでトロリーバスで向かいます。
「黒部の太陽」の舞台です。
山行だけではない往復の移動にも楽しみ盛り沢山、というのがこの旅の魅力のひとつ。
なんて、当日まで、どこまでそれを理解していたかということは言わないでおきますがw
トロリーバス、最前列からの景色はこんな感じ。
残念ながら私は一番先頭席に座れなかったので写真がほとんど撮れていなかったのですが、前日ここ通ったお友達がいいお写真をとっていたのでお借りしました。
写真提供:©tetsu
さて、少しだけこのトンネルについて、前回その時代的背景も少々考察したことですし、
ここでも少しだけ雑学的なお話を。
このトロリーバスが通る大町トンネルは、昭和30年戦後の深刻な電力不足を解消するために
関西電力が「黒部ダムくろよん」の建設を決断し、昭和31年7月着工。
ダム建設に必要な物資や資材の搬送ルートを確保するため、8月大町トンネルの掘削が開始されますが、翌昭和32年4月、破砕帯にぶつかり工事は難航を極めます。
この破砕帯を突破したのは12月。扇沢の入り口から1691m地点から1762m地点までの80mを突破するのに216日を要したのです。
ところで、この「破砕帯」とはどんなものかというと・・・。
これ、いろいろ調べたのですが、どれもわかりにくいんですよね。
「断層に沿って岩石が破壊された帯状の部分。断層角礫や断層粘土がある幅で一定の方向に分布する。」(三省堂 大辞林)
・・・んー。わかった気分にはなるけれどw
ざっと調べたなかでは、比較的こちらの説明がわかりやすかったかったかな。
――破砕帯とは? //////////
岩盤の中で岩が細かく砕け、その隙間に地下水を大量に含んだ軟弱な地層のことだ。だから掘っても掘っても天井から崩れ、前へ進めない状態。地下水は4℃と冷たく、それが毎秒660リットルもの勢いで降ってくる。毎秒660リットルというのは、水道の蛇口をほんの一瞬ひねるだけでパッと浴槽がいっぱいになるような量。まるで凍えそうに冷たい滝の中に入って仕事をするような凄まじい状況で、手がつけられない。破砕帯に遭遇したあと、上空からヘリコプターで地層を調べたところ、なんと破砕帯は80mもあったことがわかった。
(時代を解くキーワードSIGHT・Close Up エナジー「黒部ダム あの破砕帯から50年」関西電力黒四管理事務所
所長 村上正育)http://www.kepco.co.jp/insight/content/close/closeup130.html
もう少し付け足しますと黒部はフォッサマグナ地域にあるんです。フォッサマグナというのは「大きな溝」という意味なんですけれど、地形的な溝ではなく、山々をつくっている地層や岩石を知ってはじめてわかる「地質学的な溝」なのだそうです。本州の真ん中には糸魚川静岡構造線、太平洋側は柏崎千葉構造線のフォッサマグナが走っていて、この線上の地殻はそのエネルギーにより岩盤が砕かれており脆くなっています。この岩盤が砕かれた部分が大破砕帯なのです。
図:「地球と気象・地震を考える」より転載。
http://blog.sizen-kankyo.com/blog/2015/04/2982.html
この破砕帯突破の難工事の模様を映画化されたのが、1968年に熊井啓監督の「黒部の太陽」です。
詳細を書き起こせるほど明確におぼえていないのですが、映画「黒部の太陽」でも石原裕次郎演じる岩岡が、割り箸をバキッと折り「く」の字の逆の形を作って日本列島の説明をしながら、フォッサマグナと破砕帯について説明し、この工事が難儀であることを説明するシーンがありました。
写真は現在の大町トンネル破砕帯の様子。
写真元:KUROBEDAMU OFFICIAL SITE http://www.kurobe-dam.com/whatis/history.html
ちなみにこの大町トンネル。関西電力が保有しているのですが、これはこのトンネルが中部山岳国立公園内に掘られたため、「一般公衆の利用に供すること」が建設許可の条件となり、関西電力はダム工事完成後、トンネルを通る公共交通機関を運行することによってその条件を満たしました。それが、このトロリーバスというわけなんです。これと同様のものがもうひとつ。中部山岳国立公園内である現地にダムを造成する条件として、厚生省が登山者のために毎年整備することを義務づけられたため、関西電力が維持・補修を行っている場所があります。実は、それこそが、これから歩く「下ノ廊下」や「水平歩道(旧日電歩道)」なんです。その費用は毎年数千万円、延べ 500 名の人員を投じているとか!
~続く~
*この一連の紀行文を書くにあたり、普段なら「山行」「山旅」と記すものも、筆者の様々な想いにより敢えて「旅」という表現を使っています。けれども、「下ノ廊下」「水平歩道」は、普段の山行同様、もしくはそれ以上の「登山技術・経験、装備」を必要とする区間です。一般観光ルートではありません。誤解なきよう、ご理解のほどよろしくおねがいします。
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